今回の展示会は中日関係史上に発生したことと述べた。これによって、日本による中国侵略戦争の経緯及び寛大な心を持ち、日本残留孤児を引き取って育てた中国人民による人を感動させる事績は明らかにされる。 中国残留日本人孤児というのは年第二次世界戦争の際、1945年日本に降伏し、日本軍はあわてて撤退する当時、置き去りにされ、その後中国人によって育てられた日本人の残留孤児のこと、約4000人以上になる。中国に残留となった孤児は、ほとんど開拓団として移り住んだ日本人の子らで、その中90%以上の人は東北三省及び内モンゴル自治区の東側に集中している。 戦後、まだ困難な生活を極めていた中国人民は彼らに対し救助の手をさし伸べた。中国の養父母が自分の乳汁と食糧で彼らを育て、食うものも食わずに、様々な困難を乗り越え日本の残留孤児育てた。なんとかして彼らを学校に入学させ、将来優れる人材になるのに大きな期待を寄せていた。大人になったら、さらにすべての貯金を出して、彼らを結婚して独立生活させた。この東方文明の古国である中国の土地で、養父母たちは広い心によって人類戦争史上人道と博愛の賛歌を歌い上げた。 1972年中日国交は正常化になった。中国赤十字会の協力の下で、多くの日本人孤児は日本に渡り、日本にいる親族を探し始めた。今まで、帰国して定住することになってきた残留孤児は3800人以上を超えた。日本遺児は遺棄され、その後引き取られた。そして、日本に帰って、定住することになった。前後半世紀あまりの時間がかかった。その時、飢えて泣き叫びながら食を求める赤ん坊も今鬢がしらが混じりになっていた。苦労して彼らを育てる養父母はすでに古希を迎えた。多くの方がすでに亡くなっていた。それゆえ特別な存在である日本遺児とその養父母のことに関心を寄せることは、重大な歴史的意義と現実的な意義を持っている。
1894年日清戦争以後、日本の強制で中国はやむを得ず馬関条約に調印した。遼東半島を日本に割与した。のちにロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉が起こった。 それゆえ、日本は仕方がなく、遼東半島を返還した。これをきっかけとして、ロシアは絶えずに東北地方での勢力圏を拡大した。1904年日露戦争が起こしてから、日本とロシアが中国東北での勢力範囲を改めて分割しはじめた。結局日本は、ロシアから中国東北地方旅大半島租借権、長春から旅順までの鉄道支線(東清鉄道南部支線の鉄道)およびその付属地域を得ることとなり、中国東北地方への移民ブームが巻き起こった。
1945年8月9日、ソ連軍は中国東北に侵攻した、15日に日本は敗戦降伏を宣言した。これにより、軍隊の保護を失った日本開拓団の団員は関東軍に見捨てられ、極めて困難な状況に置かれた。逃避行のなかで多くの人は絶望で自殺した。また、混乱の中、病気や飢餓で亡くなった人も多かった。深い山、原始林や荒野で行方不明になった人も多かった。多くの婦人と子供が東北地方の町と農村に取り残された
日本が敗戦した後、日本難民が避難中、やむなく自分の子を現地に取り残った。直接的に、あるいは間接的に子を中国人に預けた。2000年まで中国に残留する日本人孤児の状況は:黒竜江省2010人、吉林省750人、遼寧省850人、内モンゴル自治区東側158人、合計で3768人。他の省、市、自治区に加え、残留孤児の総数は4000人以上である。 中国人養父母も侵略戦争の苦しみを経験したばかりだった。苦しい生活をしていた中国人は人道的にこれらの子供を受け入れ、さんざん苦労して,これらの子供を一人前に育て上げた.彼らの愛と手で、これらの不幸な子供たちも幸せになった。
1999年8月20日、「中国養父母感謝の碑」は瀋陽市の「九一八歴史博物館」の中で落成した。この記念碑は第2次世界大戦中に日本人の親や兄弟と生き別れた千人の残留孤児たちが寄付を出し合って建てた。 除幕式には、百人あまりの日本孤児、中国人養父母、やボランティアらが集まった。「中国養父母感謝の碑」は日本人千野誠治さんが働きかけて、開かれた「中国人養父母感謝委員会」によって計画して建設された。
戦後60年以上経過した現在で、数多くの日本孤児の中国人養父母が亡くなり、当時の日本孤児も今晩年を迎えた。昔のことを振り返り、母の愛情、人道、博愛、無私などの意味を人々に伝え、未来の平和のためにも歴史を皆様の心に銘記させる。そして、幸せな生活が永遠に続く太平の世を作り、すばらしい願望を実現させる。 中国人養父母の愛は、民族を超越し、国境を超越し、文化を超越した。このような愛は歴史に残し、人々の心に刻まれている。愛の輝きは世の中を照らし出す。